先日、深夜に友人から電話がかかってきた。友人は泣いていた。
「どうしたの?」
「先輩に殴られた」
嗚咽をこらえる友人から話を聞くと、飲み会の後に先輩に殴られたのだという。話を順序立てて聞いても、様子がおかしい。変な違和感がある。
一度落ち着いて、彼は言った。
「その先輩のことが好きだったんだ」
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彼も、その先輩も生物学的に言えば、男性だ。今までストレートとして生きてきた友人。誰にも相談できず、彼はずっと一人で抱えていた。
好きな人がいること。
その人が男性だということ。
その恋は叶わないこと。
誰にも話せず、ずっと一人で。孤独だったろうなあ。辛くても辛くても、誰にも相談なんてできなくて、友達が離れて行ってしまうのではないかという不安に駆られながら、毎朝その辛さを思い出していたんだろう。
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彼はしきりに謝っていた。
どこかで同性愛というものを否定していたと。
同性愛を否定していたということは、彼は男の人を好きになってしまった彼自身を認めてなどあげられなかったのだと思う。それがどれほど辛いことかは、痛い程分かった。僕にもそうだった時期があるから。
一番同性愛を否定しているのは、お硬い保守派のオヤジ共ではなく、当事者自身なのだと僕は思う。だって自分ごとだから。切っても切り離せないから。人は人、じゃ済まないから。人生に関わるから。一生が全く違うものになるから。
僕も「そういう生き方だってあるよ」と自分を認めてあげられるようになるまで相当の時間がかかった。
アメリカではそういった学問が進んでいること。
同性結婚が認められるようになっていること。
日本でもそういう活動をしている人がいること。
同性を好きになる仲間が他にもたくさんいること。
LGBTの人たちの存在を社会に認めさせようとしている人がいること。
自分もそういった人たちのブライダルの事業を始めようとしていること。
手をあげた先輩は許されるものではないけれど、多分その人も自分自身を認めてあげられないのだと思うということ。
全部説明した。
閉ざされた社会の中では、なかなかそういう情報を得ることは難しい。
ググればいいってものじゃない。
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「死ぬな。絶対死ぬな。もしかしたら、自分自身を否定しているかもしれない。否定する人がいるかもしれない。でも、生きてちゃいけないなんてことは絶対ないから。」
本気で言った。
「死ぬな」って本気で。
すごく悔しかった。ただ日常を生きているだけで、自分の存在を疑ってしまう。人を好きだという気持ちに素直になろうとすればするほど、世間の目を気にしてしまう。
そうやって自分を否定し続けて、誰にも相談できずに、一人で抱え込んでしまっている人が、もっともっとたくさんいる。僕は幸いなことに、相談できる人がいて、受け入れてくれて、話を黙って聞いてくれる人がいた。涙を流す人も、頑張ったねと声をかけてくれる人もいた。
もちろんカミングアウトを正義とは思っていない。人それぞれの生き方があるし、メリットデメリットもある。
ただ、相談したくても不安でできない人が不安なく相談できる世界になってほしいと切実に思う。
そういうことを言うと他人事で、遠い世界のような気がするけれど、この問題はどちらかといえば個人対個人の問題だったりもする。
社会問題とされているけれど、何百万人と日本に存在するセクシャルマイノリティの問題ではなくて、人を好きになるという当たり前の性の問題に悩む何百万件という個人とその周囲の文脈の中にある問題だから。
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人間関係で傷ついても、結局薬になるのは人の優しさだったりする。
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